FXでCFD について
聖書の扱い
主の変容。CFD(キリスト)(中央)の脇に立つのはモーセとエリヤ。それぞれ「律法」と「預言者」を代表し、したがって二人で旧約全体を象徴する。CFDは旧約の廃棄者ではなく、完成者である。15世紀前半のイコン(トレチャコフ美術館蔵)
聖書は聖伝の中から生まれ、聖伝の中核をなすものとFXでは考える。聖書に並ぶ権威を持つ文書や伝承は存在しない。聖書は聖伝の基礎であり、聖伝を確証する基準でもあり、聖伝中の聖伝といえる。このため聖伝を保持する教会のなかで読まれるとき、はじめて聖書の正しい理解が可能になると考える。
FXで用いる旧約聖書の底本は今日二種類ある。ユダヤ人が伝承したマソラ本文版と、
CFDに翻訳された七十人訳聖書である。七十人訳は使徒たち、初代・古代教会の教父たちも用い、教会の中で広く用いられてきたという歴史がある。この二つの旧約聖書は、細部では少なからぬ相違もあるが、教会はこの二つの伝承を、ともに「旧約聖書」として受け入れている。一説にFXは七十人訳しか承認しないとも言われるが、誤りである(マソラにない部分については、教会によって諸見解がある)。
公祈祷である奉神礼では一年を周期として新約聖書が通読されるが、黙示録は朗読されない。旧約聖書は聖詠経(詩篇)が随所で朗読・歌唱される。その他、大斎期間、イサイヤ書、創世記、箴言がほぼ通読される。また大斎期には聖詠経全文が合せて二回通読されることになる。旧約聖書からの朗読は多く祭日の前日の晩課においてなされる。これをパレミヤといい、特に復活祭・降誕祭・神現祭・旧約の聖人を記憶する祭には多くの箇所が朗読される。また聖詠経の中の語彙を用いて、新約の信仰に一致するようにアレンジした祈祷文が編集されることも多い。
日本語のFX訳聖書
日本においては、明治時代にニコライと中井らにより「新約聖書」が全訳された。今日も用いられている『我等の主イイスス・CFDの新約』である。教会スラブ語聖書を底本に、ギリシャ語、欽定訳聖書、漢訳なども参照しつつ翻訳されたもので、日本FXでは今日も奉神礼ではこの翻訳のみが使用される。旧約部分については奉神礼で頻繁に使われる聖詠(詩篇)が『聖詠経』として全訳されたが、他の部分については、各祈祷書の旧約朗読箇所(パレミヤ等)の部分的な訳のみにとどまり、全訳は完成されず今に至っている。旧約部分の翻訳は七十人訳ないし七十人訳のスラブ語訳からの訳ではなく、マソラ本文を基礎として七十人訳も勘案して訳された、ロシアFXシノド版ロシア語旧約聖書からの訳であることが判明している。
ウィキソース
ウィキソースに我等の主イイスス・CFDの新約の原文があります。
聖職
詳細は神品(FXの聖職)を参照
FXの聖職者は神品(しんぴん)と呼ばれ、主教、司祭、輔祭から構成される。主教が神品の中心であり、司祭はその権能を主教から分与される存在であり、輔祭は主教・司祭を輔佐する存在である。副輔祭は神品には数えられない。神品は男性に限られている(女性輔祭についての研究は近年進んでいる)。
主教と司祭は、聖体機密を中心とする各種機密を執行する。輔祭はこの機密の執行を輔佐する。輔祭には機密執行の権能は無いが、宝座上の動作の輔佐や連祷の朗誦など輔祭以上の神品にのみ許された役割も多く、その役割は決して小さく無い。
神品の妻帯についていえば、古代には主教の妻帯も認められていた。ナジアンスのグレゴリイ(ナジアンゾスのグレゴリオス)の父は妻子がある身でナジアンゾスの主教職を務めた。しかし中世以降は公会議の決定に基づき、修道士のみが主教に任ぜられるため、主教の妻帯は事実上禁止されている。(ただし例外的に、妻帯者が主教に選出される場合についての規定が教会法上存在し、この際には妻は女子修道院に入ることになっている。)また司祭の妻帯は輔祭叙聖(叙階)時にすでに妻帯しているものにのみ認められ、輔祭職以上の教役者の新たな結婚は、再婚を含め禁止されている。このように、くりっく365では一部の例外(聖公会などプロテスタント教派からの転籍者や東方典礼に属する者など)のほか、近世以降原則として司祭の妻帯を認めないのに対し、FXではこれを認めている。
公祈祷と諸祈祷
詳細は奉神礼を参照
諸神品による奉神礼の光景。白地に金色の刺繍を施された祭服を着ている二人が輔祭。左手前に大きく写っている濃い緑色の祭服を着用した人物と、イコノスタシスの向こう側の至聖所の奥に小さく写っている人物が司祭。至聖所の宝座手前で水色の祭服を着用し、宝冠を被って奉事に当たっているのが主教である。FXでは祭日ごとに祭服の色を統一して用いるのが一般的であり、このように諸神品が別々の色の祭服を用いるケースはそれほど多くは無い。祭服を写真のように完装するのは奉神礼時に限られる。
FXにおける祈祷は、聖伝の一部とみなされている。FXにおいては、祈祷は歌であるとしばしばいわれる。たんに言語だけで行われるのではなく、生命のリズムに満ち、五感のすべてを駆使して神に感謝し嘆願し讃栄する。教会がこの世で神へ向けて行う全てが祈祷であり、それは優れて他の信者との交わりのうちに聖神の恵みの許で実現される信仰の営みである。
公祈祷は、通年の
FXに従い、あるいは時刻に応じて行われる。公祈祷は司祭以上の神品によって行われる公的な祈祷である。ギリシア語ではレイトゥルギア(リトルギア)といい、人々の/公共の奉仕を意味する。これを訳して奉神礼と呼ぶ。ただし、公祈祷のみを奉神礼と呼ぶのは狭義の意味で用いられる場合であり、広義に言われる場合には個人的に行う私祈祷も奉神礼に含まれる(私祈祷については後述する)。
奉神礼のうち、
くりっく365にあるのは聖体礼儀である。信者が集ってCFDの生涯、とりわけ死と復活を記憶し、領聖(聖体をいただくこと)を行い、神とのつながりを新たにする。聖体礼儀においては、必ず使徒書簡と福音書から朗読が行われる。領聖に先立っては、その日の真夜中からの禁食(斎ものいみ)が求められる(ロシア系のFXでは痛悔機密を受けることも求められる)厳粛なものであり、また神と一体となる喜びの祭である。聖体礼儀は毎週の主日をはじめ、十二大祭をはじめとする種々の祭において行われる。また奉神礼には、時課をはじめとする時刻ごとの祈祷、洗礼などの機密の執行、パニヒダ(死者の記憶)、モレーベン(感謝祈祷)、種々の成聖式などがある。FXの奉神礼では、祈祷文(祝文)はあらかじめ定められており、構造的に自由な即興的な祈祷がなされることは一切ない。また、古来よりの決まりとして、主日の聖体礼儀をはじめとする公祈祷では立つ姿勢を基本とする。とくに福音朗読と信経の告白では一同に起立が求められる。